活版印刷の「生みの親」と「育ての親」
グーテンベルクが活版印刷の生みの親で、日本での育ての親の一人が本木昌造翁です。
画数の多い漢字やカタカナ、ひらがなを活版印刷できるようにし、日本の文化・教育の発展に寄与された方です。
本木昌造翁の功績は各自でお調べいただくとして…。
大阪の四天王寺境内に記念碑を見に行ってきました。
幼い頃から何度も訪れた事のあるお寺ですが、見た記憶がなく、職員の方に尋ねてみても不明で、4人目の職員さんが、内線電話で聞いてくださってやっと判明。
霊苑区域にありました。(★)
実物はとても大きく、立派で驚きました。「百聞は一見に如かず」。
もう一つ驚いた事は、玉垣には沢山の知った社名があった事です。
大阪府印刷工業組合のお名前もあったので、組合の50年史で調べてみました。
平成18年に発行された50年史は、本札と別冊「本木昌造と日本の近代活字」からなります。
【本木昌造翁記念碑の修復】昭和27年(1952年) 本冊66頁
初期の銅像は明治33年10月に建立され、明治・大正・昭和と毎年10月に本木祭が営まれていましたが、昭和16年9月に大阪印刷同業組合は解散し、昭和18年8月には金属回収令で銅像も供出されてしまいました。
終戦を迎え、昭和25年に大阪印刷工業会が発足し、初代会長となった西村重太郎氏は、昭和27年正月、四天王寺を訪れた際、碑石だけとなり荒廃した記念碑を見て再建を決意。「本木昌造先生記念修復委員会」を組織し、募金活動を展開しました。
活動の甲斐あり昭和27年10月、銅板レリーフ彫刻による胸像を、残っていた碑石の上に再建し、参列者150人の前で彰徳碑開眼式が執り行われました。
【本木昌造先生銅像の復元】昭和60年(1985年) 本冊117頁
戦前の初代と同じ立像の姿に復元されたのは大阪印刷組合100周年記念事業の一貫でした。
所用費用1600万円の内訳は寄付を求め、玉垣子柱42本(1本20万円)、親柱7本(1本50万円)、一般募集(一口1万円)、77社114口が集まりました。
青銅製で身長高1.8メートル。戦前の碑石に置かれ、印刷および関連業界から150名が出席し除幕式が行われ、これをもって大阪印刷組合100周年記念の全行事が終了しました。
現在「本木祭」は本木昌造翁の命日である9月3日に5年に1度開催されています。(次回は平成27年9月3日です。)
《グ》私も本木昌造翁にお会いしてみたいものだ。